数学と条文
今も週1回、高校数学を教えています。教える側になってわかったことですが、数学の教科書、問題にには「無駄なこと」は一つもありません。言葉や数字、表やグラフなどの資料、全て使うようになっていて、なおかつ、「今自分が何をしようとしているのか?」がわかると解けるようになっています。解けるまでの「道筋」は容易ではない問題が多いので、それは別の話にはなりますが、表現一つ、公式の理由、一つ一つに意味があります。
一方、今、新学校法人の寄附行為の修正をしています。寄附行為というのは、一般企業でいうところの定款に相当するもので、学校法人のルールブックです。県の担当者からの補正の指示に従って直しているところです。その過程で、ふと気づきました。補正させられるのは同じ内容、同じ表現、同じ漢字の使い方、です。どういう意味かというと、「同じ内容なら、表現も言葉も漢字の有無も全て同じ」ということです。前回は〇〇という表現だった、今回は✖✖という表現になっている、はありません。語彙力がある「フリ」はしないのです。
僕は、それが数学と共通するように思えました。表現する語句、漢字、内容、全て意味があり、チェックして受領する側には恣意的な部分は無いようです。参考文献としてもらった、他の学校法人の寄附行為と見比べても同じ表現、同じ言葉の使い方、送り仮名の有無も統一されていました。だからこそ、誰に対しても同じ対応ができるのだと気づいたのです。正直なところ、僕には真似ができない、と思いました。数学と条文は、理系と文系に分かれて、180度反対側の立ち位置のように思えます。ですが、憶測やブレの余地を挟ませないようにするという意味では、同じ世界観です。今日はそれに気づきました。そういう意味で、文書作成にはもっと注意が必要だと思わされました。