「ヨブ記」が僕に教えてくれたもの

仙台基督教会

 一昨年の10月からずっと疑問だったことが、ようやく答えを見つけることができて、それをFacebookに投稿しました。いつもなら、同じ内容でも、ブログはブログで文章を書くのですが、今日はその投稿をそのまま持ってきます。

僕が通っていた幼稚園は日曜学校があり、日曜日には、新約聖書の4つの福音書からのイラストの描いてある名刺大のカードが貰えました。東北学院大学卒ですが、単位を取るため以外には聖書を開くことはありませんでした。そういう経緯なので、旧約聖書はほとんど知識がありません。そんな中で、最近、旧約聖書の「ヨブ記」を知る機会がありました。YouTubeで検索しても、ヨブ記は難解な書物のようで、難しい解説をして終わっているものもあります。ですが、ヨブ記を丁寧に説明している動画に出会い、僕の1年以上に渡る疑問が解決されたように思いました。
 行政書士として駆け出しの頃に必死でやった仕事が、一昨年の秋にとてつもない問題となって、僕の元に戻ってきました。県と市に何度もお伺いを立て、関係各所に幾度も説明をして書類を集めました。担当者が誰かわからずたらい回しにされたり、「問題」を解決するには1回では終わらず、その都度説明を聞いて回ったり、精神的にきついものがありました。もちろん、収入に繋がるわけもなく、もがいている最中に何度も「なぜ必死で取り組んだことがこんな大問題になって返ってくるのか」自分に問いかけました。手抜きをした、だから大問題になった、それなら因果応報だからわかります。がむしゃらに取り組んで、当時の自分としては出来る限りのことをしたはずなのに、それがなぜ仇になって返ってきたのか、本当に理不尽に思えて仕方ありませんでした。
 先週、ヨブ記に触れ、ある牧師の解説を聞いた時に、ずっと自分の心の中にあった疑問が、消化されていきました。世の中は因果応報だけではないのだ、と。自分の立場では見えないもの、理解できないものでも、より「上の立場」からすると、そこに意味があるのだ、と。ヨブは子供を失い、全財産を失い、身体中に腫れ物ができ、3人の友達に「自分の罪を認めろ!」と迫られます。誰よりも信仰心が厚いのに、です。神に答えを求めても直接の答えは得られません。むしろ自分の非力さを問い詰められます。ですが、最後には神に祝福されて終わります。つまり、一見すると「理不尽な出来事」が降り掛かってきても、心の置き所を間違わないようにすることが大事なようです。
 そういう意味で、とても苦しい1年数ヶ月でしたが、ようやく「答え」に出会えました。心の置き所は間違えてはいなかったようです。苦しい時期にも「ヨブ記」の名前は聞いていましたが、僕の前を素通りしていました。必要な時が来たから見えたのかな、と思っています。やはり、「世の中は案外上手く出来ている」ようです。自分のモットーを思い出しました。

 以上が、Facebookに投稿した内容です。ここから先は自分のブログなので、もう少し書き足します。僕に答えを教えてくれたのは、ハーベストタイムの中川牧師です。中川牧師の解説で、ヨブ記が教えている意味が理解できたと思います。さらに、ヨブ記をはっきりと意識させてくれたのは、仙台基督教会の八木司祭です。八木正言司祭が教会紙に書いた文章が、「まさにその通り!」な内容で、それがヨブ記につながったのでした。ちなみに八木司祭によると、ヨブが最後に報われるのは後世の創作の可能性があるのだそうです。そうでないと、ヨブが報われないまま終わるから。これ真実な気がするなぁ・・・

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